2007/11/08 カテゴリ: 食の安全 : 

食を揺るがすいろいろな次元の問題(6)その5

−今後、日本社会が切実に取り組むべき難しい課題 
       資本主義の原理がどこまで通用するか

 資本主義の競争原理が食の市場に働く場合も他の分野と全く同じこと、つまりより便利なもの、より美味しいものをより安く、という方向が強められてゆくことになります。

これまで考えてきた食品開発に関するさまざまな工夫あるいは行きすぎたカモフラージュのテクノロジーも、もとはといえば誰かがそういう消費者受けするものを開発すると現行のものがもはや売れなくなる。さらに新しいものが開発される、ということが連綿と続いてきた結果に違いありません。

もちろんそういった競争は食の安全に関する法律を遵守するという共通ルールの中で行われることですが、中にはその法の虚をついて不正が横行するということについても前回考えてみました。







 
永遠不変とみなされてきたような資本主義の原理として考えられていたことが、今日一部の人間社会(もちろん日本を含む)では必ずしも成り立たないような事例がそこここで出てきています。

たとえば私達が毎日利用するウェブサイトや様々なソフトウエア、ウィキペディアのようないわゆるWeb 2.0と呼ばれるようなユーザー参加型の修正進化型データベースなどはその典型例です。

そこには他者よりも有利になるという目的原理だけでは説明できない人間のもつ公共性や性善説的な考え方が底流にあって、その試行錯誤は現在ものすごい速度で行われています。

 こういう例を持ち出してみたくなったのは、「食」においても私達は単なる競争原理ではない別の価値観を取り入れるべきではないかと思ったからです。

言い換えればこれまでとは逆のこと、便利でない調理に価値を見出すこと、時には安くないかもしれない食材を受け入れる購買感覚、見栄えの必ずしもよくない食品材料を選択する、などということが当たり前になるような世の中になる、そういう可能性が考えられるということです。

 「便利でない調理」というのは、例えばカット野菜ではなく、土のついたような野菜を調理しようとすること、温めるだけで済むカップ食品や弁当を「買う」ことから自分で作った弁当を食べるといったようなことです。

もちろん、簡便に済ませることが必要なときにこれら出来合いの製品は極めて重宝ですし、それを利用できる状況がなくなることはないと思います。

しかし、食を栄養獲得のための手段としてのみ見るのではなく、作る側と食べる側のコミュニケーションだという原点の事実をもっと重んじるような風潮が今後意識的に前面に出てきてしかるべきでしょう。

これは世上「食育」としてさかんに言われていることですね。

私は今ならまだ十分間に合う気がしていますが、あと1−2世代も進んでしまえば、そもそも食材を一から選んで台所で調理するという基本に戻るのが非常に難しいような状況になってしまうのではないかとかなり心配です。

ここではやはり手軽で便利なものがそうでないものより良く売れるはずだという資本主義の原理が逆転することになります。

 「安さ」については、これを追求しすぎるところから品質のずさん管理やニセモノ食品(例のとうもろこしの芯を着色したトウガラシ〔のようなもの〕、人毛を原料にした醤油〔のようなもの〕という気味の悪いケースです)が横行する傾向が出てきます。

これについてはあまりに安すぎるものにかえって価値を認めないという考えで対抗することになると思われますが、これもまた資本主義原理には合いません。

次回の更新は11/15(木)です。