2010/07/08 カテゴリ: 高齢者・療養中の方 : 

長生きについて(2)

「長生きはできるに越したことはない」ということは、例えば20−30年前あたりまでは(絶対の真理とまでは行かずとも)かなり当然のことと信じられていたと思います。

もちろん今でも誰かが生死の淵をさまようような状態になれば、周囲も医療機関も何とか命を救おうとします。

大怪我をして倒れている人を見て、まさか「長生きしても幸せとは限らないんだからここで死んでしまうのも悪くないかもしれない」などと思う人はまずいません。

数年前に「長生きするリスク」という言葉を新聞か何かで目にした時、非常に妙な気がしました。

これは何とも逆説的な、向こう受けを狙った警句です。

その言葉が意味するところもよく分かりました。

よく分かるけれども分かってはいけないような気がしたわけです。

高齢も後期、超後期といったあたりになってくれば、現に身体のあちこちに不調が出てくるわけですし、病気ではなくとも筋肉や感覚器官、ホルモン分泌などのあらゆる器官に減弱現象が現われてくることはやむを得ません。

ついには一人で暮らすことが難しい状況になります。

一方、近隣の地域のつながりは薄まり、家族は孤立化に向かう、という現状の方向性も歴然としています。

おまけに経済的にも難しい状態に追い込まれてしまいます。

人間いつ死ぬかということが初めから確定していれば、どんな計画でも立てられますが、こればっかりはまず分かりません。

分からないから生きていられるのです。

このように考えると人生の終末期というのは、まるで霧に包まれた狭い飛行場にいつとも知れず着陸しなければならないような、かなりのスキルを要する難事業であるように思われてきます。

誰しも本能的に墜落は避けたいと願ってはいるのですが、そろそろ着陸かと覚悟を固めていたものの、乱気流の中を何年も飛び続けるしかなかったというような現状も多々あるでしょうし、飛んでいる本人の自覚がなくなってしまう場合だってあるでしょう。

また周囲が強引に「着陸」させることも許されません。

ただ社会的にそのような状況になっていく人口が今後増えていくことは確実ですので、前回書いた上野千鶴子先生のような研究が是非必要になってきます。












社会研究やそれの具体的活用手段である政治においては「一般化」ということが重要な要件になります。

つまり、できるだけ多くの人の役に立つような対策を打ち出せるように物事を整理していく必要があるわけです。

老いの問題でいえば、どういう世代のどういう性別の人がどの位のコミュニティ規模の中にどんな経済状態、どの程度の健康状態で過ごしているか、というようなことを類型化して行かなければなりません。

類型化によって、ああ自分はこのタイプだからこうすれば無事「着陸」できるなとか、自分の親はこのタイプだからこうしなければならないな、といったことにある程度の手が打てるようになります。

ただ、政治制度がそれを解決しようという提案をする場合、経済的制約によるか、類型化作業の限界によるかは別として、結局は何らかの「最小公倍数」的なケアを与え、受け取るということにならざるを得ません。

東京都の高齢化施設の例でいえば、賄いつきの個室面積が当初「ひとり八畳」だったのが、「六畳」となり、とうとう「四畳半」になってしまったということです。

裏にある事情を聴けば理解できるのかもしれませんが、直感的にはきついな、と思ってしまいます。

これはつまり「長生きできるに越したことはない」という絶対真理に疑問符が付くかもしれないぞということです。

もはや私たちはこの種の状況に「慣れ」を感じ始めている可能性もありますが、よくよく考えてみれば「長生きも考えものかも・・・」といった現代日本人の抱く不安は、人類が史上最も長い平和と繁栄の果てに初めて遭遇している感覚と言えるのかもしれません。

次回の更新は7/15(木)です。