2010/07/15 カテゴリ: 高齢者・療養中の方 : 

長生きについて(3)理論や施策の中の「空洞」

高齢化社会の研究はますます必要になるに違いありませんし、政府の政策を支持したり批判したりすることも関心のありようとしては重要なことだと思います。

けれども、このような検証や検討は、経済的にも精神的にも苦しい立場に追い込まれていく高齢者の人々を救うことをミッションとしていながら、その施策の根底には結局「人の愛情」が必要であるというようなことには、あまり触れられておらず、そこに大きな空洞の存在を感じます。

別の見方をすれば、そのような「家族をはじめとした肉親の愛情」には期待できない、それが期待できるくらいであれば苦労はしない、というところから出発していると見るべきなのかもしれません。

この頃は息子が母親の介護を行う例が増えているのだそうです。

これを聞けば、そこはかとなくほのぼのとしていて良い感じがしてきますが、そのあとに「しかしその場合には虐待が伴う場合が多い」と続けば、今度は心穏やかではいられなくなってきます。

幼児虐待の方も容易ならざる問題ですが、一般的には自分の子供のおむつを替えることを苦痛だと感じる親は少ないでしょう。

赤ちゃんのおむつ交換だって、それ自体は別に楽しいことではありません。

それなのに、その作業を苦痛と思わないとすれば、それはそこに特別な愛情があるか、もしくは(ベビーシッターといった)職業的な「慣れ」があるかのいずれかということになります。

寝たきりの人に対する下の世話なども、これと基本的に同じことだと思われますが、それでも(世話をされる方の心情としても)赤ちゃんの場合に比べてより気の進まない作業ではあるでしょう。

従って、寝たきりの人を肉親が介護するということについては、赤ちゃんに対する「以上の」愛情が伴っていなければならないことになります。

ただ、赤ちゃんの世話と異なるところは、そこにもうひとつ「これまでの諸々に対する感謝」という情念が関わってくることだと思われます。










愛おしいという情と、今は床に臥しているその人への感謝の念、これらについての議論が行われることはあまりありません。

それはおそらく、類型化の不可能な個々別々の事情に依存するからでしょう。

つまりそれぞれの人の人生の真髄に入り込むことは第三者として限界があるということです。

従って情のレベルでは「最小公倍数」を示すこともできないし、政策に基づく社会システムが介入することも難しくなります。

「生み育ててくれた母親の介護に及んで虐待をもってするというのは何たることか?」と問うこともしないし「あなたは一体どんな息子の育て方をしたのか?」と床に臥す人を詰問することもできないわけです。

厳しいようですが、人生の終盤を迎えた時に、そういう殺伐だけが露出してしまうとすれば、それもその人の人生をとりまく積年の結果だということです。

この文脈で考えれば、一事が万事、現代の教育やいじめのなどの社会問題も最終的には世の中のあり方を問う一方で、個々人が「自分にまつわる自然な愛情のあり方」を若い頃から丁寧に考えることを抜きに解決はあり得ないように思われます。

次回の更新は7/22(木)です。