2014/11/13 カテゴリ: 健康 : 

「病院」と「老院」

病院は病気を治療するところです。

ですが、たとえば妊婦さんが通うところも病院だということになると、この場合は病気の治療が目的ではありません。

妊娠や出産が病気でないことは明らかです。

ではこれが唯一の例外でしょうか。

日本中どこでも大病院に行くとものすごい数の高齢者の方々が順番を待っておられるのを目にします。

ついこの前も横浜のとある大規模病院を訪ねて行ったときにもそういう光景に出合いました。

ふと考えたことは、これらの人々は本当にすべて病気の治療をめざしているのかどうか、ということでした。

実際には「老化」という自然現象を「病気」と解釈して病院通いをしている人もあるのではないかということが少し気になったのです。

もちろん老化によって身体の自由が利かなくなったり、不具合が生じてきたりしたときに「それ病院だ」となるのはふつうのことでしょう。

けれども、いわゆる医学、薬学、看護学といった学問、あるいは医療保険制度というシステムは「病気の場合」にどういうふうに手を打つかということを対象として確立されています。

つまり病(やまい)ではない「老い」にどう対応するべきか?ということには実は確たる対策がないのではないはずだということです。

もしも「老化」と「疾病」をもう少し科学的に区別でき、各々に専門の機関ができたとしたら施療する側も受診する側も今とは異なる様相を呈してくるかもしれません。

例えば「病院」ならぬ「老院」ができればそこで行われることは「治療」ではないはずなのです。

目下のところその「治療」に替わる言葉がない、それを見つけたいとかねがね思っています。

悪いところを取り去る、異常値を正常値にする、という治療の発想は病院のものであるのに対し「老院」ではあくまでも個人個人に現存する生命力を駆使し、自助努力を基本にしながら「体調の良い今日」を獲得する、その手助けをするところになります。

薬にできるだけ頼るまい、とする発想を「vs.病院」というイメージで描いてしまうと「勝ち負け」になるように思えてなりません。

老化に勝ち負けはないはずなのに、そこに無理やり勝敗の論理を持ち込む、すると最終的には全敗となることは避けられず、結局医療費はどこまでも拡大してしまいます。

残念ながら今の社会はその道をばく進しています。

自助努力でよい体調を獲得すること、それが目標になる世の中ならば医療費の加速度的な拡大にも歯止めがかかるはずです。

「自助努力」、これが最大のポイントとなるように思われます。

こんなことを考えながら昨日も東京駅を歩いていましたら、長蛇の列のエスカレーターを横目にしながら「つべこべ言わずに階段を使おう」という気になりました。

ほんとうにプラットホームに向かう長い階段はだいたいどこもガラガラなのでした。


次回の更新は11/20(木)です。