2019/11/14 カテゴリ: つれづれ : 

遊び心と厳格と

ここ十数年の間にエビデンスという言葉が健康食品の世界では非常によく使われるようになりました。

エビデンスを確立するためには食べたものが「目的とすることに効いたかどうか」を可能なかぎり客観的に厳密な試験にかけ、その結果「統計的に有意差があった」ことを示さなくてはなりません。

そしてそのことを記述した論文が本当に正しいかどうかを厳しいチェックを経て公表されるとようやく「エビデンス」の必要条件が満たされます。

客観的な評価の方法として最も厳格なやり方は、あらかじめ「こういうやり方で私たちは試験をする」ということを公に宣言した上ですべて予定の通りに試験をし、評価をし、結果を公表するというものです。

期待した結果が得られなくても公表する、ということがフェアネスを担保する重要なルールになっています。

しかしながら、こういう一点の曇りもない方法だけに価値があるのかというと必ずしもそうではありません。

試験をしてみたけれど、最も知りたかったことのほかに、こんな観点からデータを整理してみたら非常に面白い意外な傾向が見られたというようなこともよくあります。

むしろ先に書いた厳格バージョンの臨床試験というものはもはや結果がある程度わかっていて(あるいは逆に右か左かまったく判断できないときに)それに決着をつけるという「確認のための試験」という性格があります。

この種の試験では仮に何か興味深いこと、気になることがみつかったとしてもそれについては触れない、つまり「予定以外の行動は一切とらない」ことを重要な要素としています。

科学は客観性が命ですから予定以外のことには目を向けずに淡々とデータに向かうことは重要なのですが、これだけでは実は「意外な発見」ということから遠ざかるという懸念があります。

よく「失敗は成功のもと」といいますが、まさにその通りで本来目指していたものよりもよほど面白いことというのは、えてして予想もしていなかったところにきらりと光って存在しているものです。

こういう予期しない掘り出し物に行き当たることを「セレンディピティ」といいますが、セレンディピティこそは大きな飛躍を生むために不可欠な要素だとかんがえられます。

というわけでかくも厳格なエビデンスも実はその最初は偶然の発見、セレンディピティに恵まれた人や時が発端になるものです。

統計的な評価は「その発見が偶然のものだったのかどうか」に決めを打つためのツールとしてなくてはならないものです。

統計学そのものは非常に高度な数学理論を基礎に置くもので、よほどの専門家でないと手に負えません。

しかし現在ではパソコンソフトの発達のおかげであっという間に結論がわかるようになってきています。

1900年代のはじめころに考えられた統計理論で今もよくつかわれているものはたくさんありますが、最初に考案した数学の大先生も今日のソフトの発達を知ればきっと腰をぬかすにちがいありません。

今日の話題はちょっとややこしくなりましたが、ちょっとした遊び心と極力厳格厳密であろうとすること、この両方がなければ科学は発展しないというあたり、そこで少し「ははーん」とひざを打っていただければと思ってお話ししました。

次回の更新は11/21(木)です。