2020/01/23 カテゴリ: つれづれ : 

三つの年齢

中学校の時に運動クラブに入ったときにはじめて「先輩」「後輩」というけじめについて意識するようになり、いかにも自分が子ども時代を脱して大人の世界に踏み込んだようなショックを覚えたものです。

この感覚はあるいは日本人に特有のものかもしれません。

欧米人はだれかれ年齢にかかわらずファーストネームで呼び合う文化がありますので、あまりそういった「先輩」「後輩」という観念は強くないように思います。

私自身、外資系の企業に転職したのは44歳の時でしたが、同じ会社の外国人に交じって話をしていると年齢というものの感じ方がずいぶん違うことを実感しました。

英語にも丁寧な言い方やそっけない言い方はあるわけですが、日本語のように尊敬語や謙譲語が豊富に選べるわけではありません。

そんな中では相手の年齢というようなことにあまり意識は向かず「要するにお互い何について話をしているのか」に関心を集中することになります。

中には非常に若いのに重職についている人もたくさんいました。

このとき私は年齢には3つの種類があるように思いました。

ひとつめは生物学的年齢です。

昭和何年生まれかを尋ねたりすることはまさにこの種の年齢が問題になっています。

けれども「年齢は同じだけど学年はひとつ下だね」という(私たちがしょっちゅう使っている)言い回しは非常に日本に独特なようで、これは言ってみれば社会制度が決めている学年という年齢です。

「平成〇年入社」という言い方もしかり。

ですからここで「浪人を経て大学に入った」「中途採用や転職で今の会社にいる」という場合には「計測」がやや複雑になることもあります。

これらはいわば「社会的年齢」にあたるでしょう。

外資系企業の中で「若い事業部長さん」がいたとしたら、あまり彼との生物学的年齢は問題になりませんから専ら「社会的年齢」を念頭に置いたやりとりをすることになります。

「年功序列」ということばは「年功(どれだけ長く功績を残しているか⇒何年この仕事をしているか)」が「序列」を判断する基準になるというわけですから、これはこれで一種の日本的な社会的な年齢の物差しになっています。

そしてもうひとつの年齢は「精神年齢」。

これについては自分で自由に決めてよいものです。

ところが、この「自由に」というところがなかなか問題です。

よく人は「私はもう還暦だから」「もう八十路を超えたんだから」というふうに考えがちです。

「もう〇〇だから」という発想はしばしば「××しなくてよい」というフレーズにつながりがちです。

いま、後者の「××」のところに「はたらく」ということをあてはめてさまざまな議論が起こっているようです。

「もう働かなくてよい」がひとつのスタンダードですが、それに対し「まだ働かなければない」「まだ働きたい」などさまざまなことが個人的都合で起こってきます。

これはおそらくその人がイメージとしてもっている生物学的年齢とさまざまな社会的年齢がごちゃ混ぜになって生じている議論だと思います。

ですから「働き方改革」などという「万人一律の方式」でこれに介入しようとしてもなかなかうまく行かないのではないでしょうか。

今年は干支がスタートに戻る年です。

一回り前の子年(ねどし)の自分はどんなだったろう、二回り前の自分は何をしていただろう、そして一回り後の自分は何をしているだろう、二回り後の自分はどこでどうしているだろう?

ここに記憶を呼び起こし、また想像力をふるい立たせることによって「もっとも自分らしい精神年齢」を自由奔放に描ければ良いなあ、と考えている今日この頃です。

次回の更新は1/30(木)です。