2021/02/11 カテゴリ: つれづれ : 

批判ばかりしたくなるのは信用しすぎるから!?

新型コロナの報道を毎日のように見る中で「エビデンス」という言葉が非常によく聞かれるようになりました。

たとえば「閉店時間を夜8時にすればウイルスが広がらない、ということにエビデンスはない」「われわれはエビデンスに基づいて方針を決定している」といった具合です。

エビデンスというのは「科学的、実証的な証拠証明のこと」ですが、実際には「仮説」といった方が正しいことも多いのではないかと思います。

データに基づく、事実に基づく、エビデンスに基づく、といった言葉の意味合いは似て非なるものです。

いくつかの事実に基づいてまず仮説ができあがる。

その仮説が正しいかどうかが検証され、疑いがないレベルになった段階で定まってくるもの、それは定説です。

長年信じられてきた定説でも覆ることはあります。

ましてや新型コロナのように進行中の事態について本当にエビデンスだといえることというのは非常に少ないはずで、そういわれているもののほとんどは定説にもなっていない仮説の段階です。

仮説が複数あると、その中に「有力仮説」という地位ができてきます。

けれどもその仮説に合わないような事象が出てくると謙虚に引っ込めなければなりません。

良い加減な風評はもっともやっかいなものですが、幾分なりとも科学的なデータがあればある考えは仮説に成長します。

仮説を立てなければ前に進むことができません。

仮説の価値とは何でしょう。

それは、その仮説で多くのことが説明できるかどうかということです。

多くのことが説明できれば、例外についてもなぜ例外なのかを説明できます。

そして仮説がしっかりしてくれば今度は予測が立つようになります。

予測が立てば方針が立つ、そして行動の指針が示される、という順序です。

ただ、甘い仮説、無理のある仮説に基づいた方針がなされる場合も多々ある、これが新型コロナなどの実状です。

専門家というのは「仮説を立てられる人のこと」と言い換えてもよいでしょう。

ここで最も難しいこと、それは自分がこれだと信じていることが唯一無二の原理だと疑わなくなること、そして自分の仮説が敗れることに耐えられなくなることです。

これはその人が専門家であればあるほどプライドが許さなくなるもので、実際一度立てた矛先を引っ込めることは人生を否定されるような気にさえなり、ほとほとつらいことです。

けれども結局新型コロナで世間を振り回しているのはそういった人間のプライドという性(さが)にちがいない。

そういうことに振り回されずに済むためにはすべて「これは仮説なんだ」「エビデンスはすべてが一件落着してから検証しなければわからないかもしれない」といったマインドセットで毎日の報道を吟味することが重要です。

何かというと批判ばかりしたくなるのは政治家や専門家の言うことをシンプルに真実だとみなして信用してしまっていることの裏返しかもしれません。

次回の更新は2/18(木)です。