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2008/10/09 (6:52 pm) |
一昨日3人の日本人のノーベル物理学賞受賞に関するニュースが流れ、そしてまた昨日は下村博士の化学賞が付け加わりました。 このところ政治も経済も愉快な話題が極端に少なかったので、久々に明るい気分になれました。 マスコミからのインタビューに対してどの先生の語り口からも驚きと喜びが表現される一方、その高揚を理性で抑制しながらの淡々朴とつとした語り口も共通していてとても印象的でした。 物理学賞の受賞理由となった素粒子に関する研究内容については極めて難解ですので、私などには到底理解不能です。 ただ今回、私は小学生の頃伝記で読んだ湯川博士あるいはその盟友であった朝永博士などのことを思い出しました。 下村博士のクラゲの発光タンパク質は幾分目で見て親しみやすいものに映りますが、理論物理学は特に門外漢には近寄り難いものです。 ![]() ただ今回受賞の対象となった研究は1960-70年代に行われたということですので、1949年受賞の湯川博士や1965年受賞の朝永博士らの時代に近い感じが素人の私にも伝わってきたのかもしれません。 それはともかく、今回報道番組の中でも科学コメンテーターと言われる人たちが登場し、その研究のエッセンスについて一般視聴者にもわかるような表現で解説をしていました。 もちろんだからといって素粒子の非対称性だとか6つのクォークだとかいうものが何であるのかはほとんどわからないのですが、それでもそれが、原子核のある種の構造や状態を理論的に予言したものであること、それがつい数年前に実験的に証明されたことなど、その分野の学問の進展ステップのような事情については理解できたように感じました。 こういうことはメディアの進化による一種の専門知識の民主化のようなものですが、「中間子理論(湯川博士)」や「くりこみ理論(朝永博士)」の時代にはなかなか行われなかったことだったように思われます。 突然ノーベル賞から話が飛んでしまいますが、今般私たちは一般の方向けのL-カルニチン情報サイト「カルニピュアランド」をリニューアルしました。 (http://www.l-carnitine.jp/carnipure_land/index.html) クォークほどではないにしても、L-カルニチンの関与する細胞やミトコンドリアといった身体の中の場所も、分子としての脂肪やL-カルニチンそのものも人が目で確認することの難しい極微の世界で起こっている現象であることに変わりはありません。 「脂肪が燃焼する」という場合の「燃焼する」という言葉はむしろ専門用語の類ですが、これを日常生活で目にする「燃える」という現象から直接イメージすることは困難です。 そこで、その本来目に見えないものを説明するためには「例え話」を用いることになります。 例え話やイラストは現象を大まかにしか伝えられませんが、それでも科学的な正確さを損なうことなくその姿をある程度描き出すことはできると思います。 新しいカルニピュアランドもそういう科学的事実のエッセンスを保ち続けることにこだわりながら、少しでも閲覧頂いた皆さんに親しんで頂けることをめざしてリニューアルしてみました。 ご意見、ご質問などをお寄せ頂ければ幸いです。 これからもどうぞよろしくお願い致します。 次回の更新は10/16(木)です。 |

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2008/06/05 (5:12 pm) |
一昨日(6月3日)のこと「食糧サミット」という世界会議がローマで開会し、ここで福田首相が、日本政府によって備蓄されている輸入米30万トン以上を拠出すること、途上国の食糧増産にむけて52億円の緊急支援を行うことなどを表明したと伝えられています。 また、食糧作物であるトウモロコシと農耕地を競合することになるバイオ燃料用作物(これは米国が推進しているものですが)に対して懸念を示し、かわりに廃棄物などを利用するバイオ燃料開発の必要性を訴えたそうです。 ![]() これについて、いくつかすぐに思ったことがあります。 まず、こういう話は具体的でわかりやすく見えるということです。 食糧自給率の非常に低い日本から食糧を輸出するという決断はかなりのものと思われますが、ともかく現在飢餓に瀕している地域の人たちに対して行えば即効性のある貢献として、ごく単純に評価できるのではないかと思います。 また、52億円という数字がどこから出てくるのかはわかりませんが、これも有効に使用されるならば私たちの税金の使い道として悪くないと思われます。 またバイオ作物が急速に拡大している大きな原因の一つは米国によるバイオ燃料の推進であるという観点からは、日本がその動きに対してはっきりと一線を画した表現をとったということも珍しいことで、これもよいのではないでしょうか。 このような福田首相の言動をさして、政治ショー的なスタンドプレーであると批判することもできるでしょうし、洞爺湖サミットの伏線を張っているだけだとみる見解もあるでしょう。 しかし、たとえそれがその通りであったとしても良い方向の提案を世界の人たちに目に見える形で発言するということは是非必要なことと思います。 と、ここまでを前半の議論とすれば、後半にはもっと私たちが知らねばならない事実がたくさんあるのではないかということを言ってみたくなります。 ここでいう、30万トンだとか、52億円だとかの拠出の議論が日本国内でどれほどなされたのか、少なくとも私の印象には残っていません。 代わりに、日銀総裁がなかなか決まらなかったことや、ガソリン価格の乱高下が起こった話、ねじれ国会を乗り切るために憲法59条の発動という珍しい(由々しき)手段を使ったことなどが記憶に残っています。 第一、食糧サミットというようなものの存在すら私は知りませんでした。 外遊演説はある変化に対する迅速な対応の結果であるかもしれず、その点では外国に渡っての緊急アピールも意義は大きいのでしょう。 しかし、何と言うか、私たち国民は昨今の政局がどちらにどんな速度で展開しようとしているのかがますます読みにくくなっている時代にいつのまにか突入してしまったような、かつて経験したことのない空気の中に放り込まれたような気がして仕方がありません。 それにしても、昨年食糧問題が目についてしばらくブログを通じて考えてみたのですが、この件は特に我々の想像力が追いつかないくらい急速に難しい方向に進んでしまっているように感じます。 あの頃、食品偽装で問題の発覚した船場吉兆はすでに廃業してしまっています。 つい1年前まで誰がそんなことを想像できたでしょうか。 ところで、そんな世相の中、内臓脂肪持ちすぎというメタボ対策の記事が飢餓を伝える記事の隣に出たりするアンバランスな現実を見ると、鈍化した私の感性もその矛盾に戸惑います。 日本人の貯蓄は世界に冠たるもの、と言われてつい先ごろまでは1400兆円などと報じられていました。 こういう資産の多くを使うことなくたくさんの人が他界してしまうようです。 墓場にお金を持ってゆくことはできないので、これは滑稽なことですが、その気持ちは同じ日本人として私にもよくわかります。 一方、内臓脂肪について言えば、これを燃やしてエネルギーにすることなく、持ち続けたまま生涯を終える人は多いということが言えるでしょう。 これはなんとも皮肉なアナロジーです。 しかし、一方今や日本人の個人資産は半分くらいに目減りしており、700兆円そこそこだ、という見解を聞いたこともあります。 これまた本当だとすれば、あっという間のことで、個人や国家の経済の状況もまたかつて経験したことのないような猛烈な変化の波にさらされていることは間違いなさそうです。 それに対して、内臓脂肪はそう簡単にはなくならない、と言いたいところですが、恐らく何らかの状況で食糧難に陥ればあっけないくらい簡単に内臓脂肪は使い尽くされ、それこそメタボは問題ではなくなるでしょう。(そしてもっと深刻な変調があちこちに現われます) ・・・最後に。 アンバランスな現実といえば、未曾有の人々がその惨事の状況も把握できないほどの危機に瀕している地域をもつ国家が、同時にオリンピックといういまや国威向上のツールともなってしまったイベントを開催するということも極めて複雑な状況に違いありません。 その天災の直前にあったチベットにおける騒乱について、その驚きや憤り、矛盾の記憶がすでに彼方に消え入るのを感じます。 これもまたスピードが速すぎる話です。 次回の更新は6/12(木)です。 |

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2008/05/22 (7:29 pm) |
75歳以上の人は後期高齢者と呼ばれるわけですが、この世代の人たちは大正から昭和一桁の生まれです。 これら年代層の人たちに共通することの一つは「物のない時代に育った」ということです。 特に第二次大戦後の食糧難の時代を経験していることは最も大きな特徴です。 その年代の人と話しているとしばしば「自分たちは物のない時代に育ったから」という枕詞をつけながら、「食べ残しはもったいない」だとか「タマゴやバターは贅沢品にみえる」とかいうような感想を聞くことがあります。 またそういったことを何度も聞かされてきたのは私のような中高年の世代が子供だった頃のことだったと思います。 正直なところその頃は、それを聞かされることは「贅沢な近ごろの若い者」に対する一種のお説教であり、私には煩わしいことでした。 昨今、新聞の一面に食糧難の記事が出ることは珍しくありません。 今のところ日本ではパニックになるような深刻な事態にはなっていませんが、途上国の状況は相当深刻であり、今度の洞爺湖サミットでも重要な懸案事項となるはずです。 ![]() しかし、ついこの前のゴールデンウイーク中のこと、いつも食べていたチーズの厚みがはっきり薄くなっていることに気付いて、これはかなり驚きました。 一袋あたりのソーセージの数が減るだとか、細くなるだとかいったことは話に聞いていましたが、実際何の前ぶれもなく食べ慣れた食品に目立った変化が現れていることを改めて知ると、何だかそら恐ろしい状況がもう私たちの背後に忍び寄っているのかもしれない、という嫌な感覚におそわれました。 戦後の食糧難といっても、昭和30年代生まれの私にはもうほとんど何の実感もありません。 もちろん私が子供だった頃には今のようにコンビニやスーパーで調理済みの食品が安値で並んでいるというような状況ではありませんでした。 しかしそれでも商店街には年々食材は豊富になる一方であり、不安を感じるようなことはありませんでした。ただ一度の例外は1973年に起こったトイレットペーパーパニックの時くらいでしょう。 しかし私の親の世代(大正から昭和一桁生まれの世代)は実際に途方もなく厳しい食糧難を体験しているのです。 つい一世代前にそういう経験があるということからして、もしかしたら私たちの次かあるいはその次の世代(平成20年代生まれあるいは平成30年代生まれ)が社会の中核になる頃の日本にはまたふたたび食糧難がやってくるのかもしれないと不愉快な予感が頭をよぎります。 第二次大戦後に起こった食糧難は戦争という極めて特殊な状況の下、敗戦国において局所的一時的に起こったことですが、現在のそれは特に何かの社会的事件が引き金になっているのではなく、地球人口が終戦後の3倍以上に増えていることに基づき、世界的に起こり始めている現象です。これに異常気象やバイオ燃料といった環境問題が複雑に絡み合っています。 ところで、後期高齢者の人たちの典型的メンタリティー「自分たちは物のない時代に育ったから・・・」という言葉は今の私には非常にたくましく、あるいはカッコよく響く気さえします。 あって欲しくないことではありますが、仮に今よりも食糧や物資が潤沢でない状況に陥った場合、今度は後期高齢者となった私たちが何を枕詞にするかといえば「自分たちは物の豊富な時代に育ったのだから、そんな厳しい状況は我慢できない」ということにならざるを得ません。 これは何とも脆弱でたよりないコメントに響きます。 新聞の一面に報道されている世界食糧危機のニュースの隣にメタボリックシンドロームの記事が出ているのを見たとき、私はとても奇妙な感覚を覚えました。 もしかしたら、国を挙げて「メタボ撲滅」などとやっていた日々は遠からずお気楽なナンセンスな時代として語られるのではないかと思います。 船場吉兆という超一流料理店での食べ残しの使い回し事件が起こりました。 それはそれで論外ですが、一方で私たちは部分的にしか利用しない食材のことも真剣に考え始めるべきだという気がしています。 次回の更新は5/29(木)です。 |

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2008/05/01 (6:13 pm) |

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2008/04/17 (7:05 pm) |

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2008/04/03 (11:20 am) |

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2008/03/27 (3:14 pm) |
今年に入ってから中国餃子事件(1月29日)が起こったときには、これは確実に今年の10大ニュースの一つになるだろうと思いました。 ところが2月になるとイージス艦「あたご」による漁船沈没事件(2月19日)、そして3月には新銀行東京の巨額損失事件(3月12日頃)、揮発油(ガソリン)税の暫定税率維持(3月17日頃)、急激な円高株安問題および米国経済の不安本格化(3月18日頃)、チベットの動乱事件(3月19日)、日銀総裁の後任が決まらない話(3月20日)などの出来事が続けざまに起こりました。 ![]() そしてこのどれもが10大ニュースの候補になり得るような、ただならぬインパクトを持っているように感じられます。 これらの問題の特徴を考えてみると、例えば以下のようなことが挙げられます。 (1)どれも問題が大きすぎて、どこから着手すればよいのかがわかりにくい (2)すべての事件において、その根本に政治的な深い思惑が絡んでいる (3)思惑の深さや複雑さからみて一朝一夕に解決できそうにない (4)事実、解決のアクションは入り口付近で頓挫し、停滞を余儀なくされている (5)すべて政治的問題であるのに、政府や国会の対応に期待を持てない さらにこれらを包括する雰囲気をいってみれば「無力感」でしょう。 そういえばこのブログでも昨年食品の安全や食糧自給率に関して考えてみましたが、どこから考えはじめてもその規模の大きさに翻弄されそうな感じにとらわれました。 今年に入ってなお、その問題は強調されてきています。 先に挙げたような特徴は特徴として指摘できるものの、より深刻なことは、どれひとつとして解決を見ないまま新聞もテレビもどんどん新しい衝撃的なニュースに更新され、まるで電車から見る窓外の風景のように「大事件」が流れていって人々の記憶から葬り去られてしまう、そのことではないでしょうか。 餃子事件についていえば、科学的な究明の困難さというよりは「国家の思惑の壁」にぶちあたってしまい、まさに立ち往生しているというのが一市民として私の目に映るところです。 それともどこかでは着々と解明の作業が進んでいるのでしょうか。ともかくも餃子事件はその後に来た数枚のニュース記事の向こうに隠れてしまい、ことの真相はさらに遠のいてしまっています。 次回の更新は4/3(木)です。 |

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2008/02/14 (3:46 pm) |
先般イチロー選手があるトーク番組で面白いことを話しているのを聞きました。 イチロー選手のトークにはいつも頭脳を急速に回転させて言葉を選んでいるような雰囲気があり、それでいて飛び出すフレーズがいくぶん禅問答に近い不思議な感じ、あるいははっと驚くようなキツネにつままれたような感じのするものも多いように思います。 ![]() 今回は引退についての話でした。 「最高の引退」は「50歳で4割を打って身を引く」というケースだろう、と。 これは自分でも笑いながらの言葉でしたが、逆に言うとそれくらい引退の決断をするということは難しいことだということが言いたかったようです。 でもイチロー選手でなければ言えないことだなあと感心しました。 もうひとつ、どうなったら引退するかに関して「ハラが出てきたら引退します」という全く別の面白い表現もしていました。 イチロー選手によれば、野球はお腹が出っ張っていてもプレイヤーでいられる数少ないスポーツの一つだけれど、自分はそうなったらもう引退するんだ、というようなことを言っていました。 これはある種の美意識のようなものなのでしょう。 「お腹が出っ張る」というと、昨今はメタボリックシンドロームのことが頭に浮かびますが、そういった美意識と医学的なメリットが一致しているということは都合がよいものだと思います。 そういえば、最近私たちが少し調査してみたところ、いわゆるダイエットという言葉が20−40代の女性の「専売特許」ではなくなっていて、30代の男性、あるいは40−50代の男性にも意識が高まっているという傾向が出てきています。 40−50代の男性の場合は健康ということに結びつきが強いものと想像されますが、美しくありたいという気持ちの張りのようなものは中高齢期のQOL(人生の質)を高める上においてとてもよい効果がある、そういうことも科学的に裏づけようとする試みも活発になってきています。 それにしてもイチロー選手の「50歳で(ハラが出ず)4割を打って引退!」という目標は何ともすがすがしく響き、私もずいぶん元気をもらったような気になりました。 次回の更新は2/21(木)です。 |
