執筆者の紹介

王堂 哲
ロンザジャパン社勤務。

L-カルニチンに限らず、すぐれたサプリメントがきめ細かく研究され、正しく用いられながら日本人のQOL向上に役立つことをテーマとして活動している。


下記「お気に入りに追加」ボタンをクリックするとブラウザの「お気に入り」に自動追加されます。(Internet Explorerでのみ有効)


カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/10/14 (1:09 pm)
前回に続き、今回も「胃ろう」について考えてみます。

「胃ろう」という処置によって患者さんの体力が回復し、嚥下・咀嚼能力が回復してくれば、やがて通常の口から摂取する食事に戻っていけます。

この場合「胃ろう」はあくまでも臨時措置だということです。

ところが、患者さんによっては回復の見通しが簡単に立たないという場合もあります。

そのような場合に、胃ろうの装着によって患者さんは延々と命をつながれることになります。

こうなってくると胃ろうはもはや臨時措置ではなく恒久措置に近い選択だということになります。

いわゆる延命治療という分野の課題になるわけです。

延命治療については、とてもこのブログで軽々に取り上げるようなテーマではありません。

非常に現代的で難しい問題です。

つまり患者さん本人の意向、家族の意向、そしてケアを行う第三者(医療機関など)の意向などの全てが判断の対象とならなければならないからです。

もしもの時に備えて、胃ろうを取り付ける処置を採るのか採らないのかを事前に決めておくことが必要だという意見もあります。

しかし、そもそも突発的に入院された時に意識が既にない場合もあるでしょう。

もちろんここで結論を出すことはできませんが、ひとつの考え方を書きたいと思います。

死に至らない人間はいませんから、どんな人でも最終的にはラストモーメント(最期の瞬間)を何らかの形で迎えることになります。

胃ろうの装着が選択肢に入ってくるときには、大抵の患者さんはある程度危急を脱して症状そのものが落ち着き、療養期間がそこそこの長期になることが予想される場合だと思われます。

本当のラストモーメント(最期の瞬間)は瞬間なのでしょうが、ろうそくの灯火が段々と減衰していくように、終盤の何日か、何時間かは生命活動が徐々に徐々に静かになっていくはずです。

そして、最終的には昏睡に陥り(それが何時間か、何日続くかはともかく)そうなれば、ものを食べず飲まず、というのがむしろ非常に自然なことなのではないかと思うのです。

ここで胃ろうなどの処置をすることは、その自然の状態、つまり生きとし生けるものが例外なく最期に置かれる状況を乱す可能性があるのではないか、そんなことも考えてみたくなるわけです。











こんなことを書いていると、そういう考え方もひとつの恣意にすぎないのであって、人の生命を左右する不遜な考えではないかとか、心穏やかならぬ想念が浮かんできます。

やはり難しい問題です。

そんなことを考えていたところ先般、元大関大麒麟の堤隆能さんが亡くなられたという記事を目にしました。

大麒麟時代は豪快な取り口で私もファンでした。

すい臓がんだったそうですが、読書家で頭脳明晰な氏は自らの死に際まで尊厳を保ち、最期の3日間程は一切の食事も水分も摂らずに眠るように逝かれたとのことです。

私はこのエピソードを読んだ時、これがいかにも大麒麟関らしい大往生だと感じたとともに、ここに至っては「胃ろう」というような処置はほとんどそぐわないものだろうとも思いました。

この話題は、このエピソードのご紹介でひとまず区切りとしたいと思います。

次回の更新は10/21(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/10/07 (5:52 pm)
「胃ろう」という、一般にはあまり聞き慣れない言葉があります。

これは、何らかの理由で口から食物を食べられなくなった人に対して、腹部の外側から胃に通じる穴を開けて、直接栄養物を送り込む栄養投与の方法です。

口から食べられなくなったら、例えば点滴などで血管から栄養素を補給すればよいのではないかと思われるかもしれませんが、必要な栄養素の全てをそのような方法で供給するということはできないのです。

栄養素を取り込む基本は何といっても消化管、特に6−7メートルの長さを持つ小腸からの吸収に優るものはありません。

数メートルもある管(くだ)がお腹の中にコンパクトに納まっていることは驚きですが、その長い小腸の表面は柔突起という顕微鏡レベルの非常に小さな凹凸で覆われていて、狭い腹部に収まっていながらその表面積はものすごく大きなものになっています。

全部を平面的に広げると成人ではテニスコート一面分位にもなりますから、その表面積がいかに大きなものかお分かりいただけると思います。

つまり、テニスコート一面分の膜を通して私たちが生きていくのに必要な栄養素が取り込まれているわけです。













ただ、小腸からの吸収を停止してしまうと腸の表面の凹凸が少なくなり、その分だけ表面積も小さくなってしまいます。

消化器官に限りませんが、使わなくなった身体の部分は「廃用」といって、萎縮する傾向があるのです。

ですから、小腸の表面積を萎縮させないためにはそこを使うこと、つまり口を通らずとも何とか小腸に食物を流し込んであげることに意味があるということになります。

鼻やのどからチューブを挿入して胃に栄養物を供給することも行われますが、この苦痛はかなり大きいものになります。

そこで、苦痛を和らげるためにお腹の外から穴を開けて胃の内部に直接栄養を送り込む方法が取られることがあります。

これが「胃ろう」と呼ばれるものです。

咀嚼は食物を噛むこと、嚥下は咀嚼した食物を飲み下すことですが、疾病や加齢によって体力が衰えてくると、それが困難になる場合があります。

そういう場合にこの胃ろうという処置を取ることによって、やがて徐々に体力が回復し次第に嚥下や咀嚼機能が回復する。

これが胃ろうについて考えられるベストストーリーです。

ただ、それだけでは済まないケースもあります。

それについては次回考えたいと思います。

次回の更新は10/14(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/09/30 (5:57 pm)
前回のブログでは、概してうす味の病院の食事のことを考えながら、「濃い味好き現代人の味覚の退化」などということに話題が及びました。

非常に容易に調味料が使えるようになったことで、日本人の日常食の味付けが濃くなる傾向になってきたという話。

濃い味付けに慣れてしまうことで、食品本来の持ち味に対する感受性が退化するのではないか、こういう若干の危機意識について思いを馳せたわけです。

今回は、病院の食事のことからポイントが離れますが、この味覚のことについて、もうちょっと寄り道させてください。

私が書いた「退化」というのは生物学の言葉では「進化」の反対の意味を表すもので、正確には遺伝子が突然変異によって変化し、偶然失われてしまった器官が(それが失われたことが生存に不利に働かなかった場合)何世代にもわたって子孫に受け継がれて定着する現象を指します。

例えばニワトリやダチョウの翼、ヘビの足、尻尾の名残であるヒトの尾てい骨や体毛などがその例です。

人工的な調味料を大量に使うようになったここ数十年から今後百年くらいの間に、ヒトの遺伝子が変化して定着することは時間的に短か過ぎてあり得ませんから、「退化」という用語は実際には使えません(ちなみに人工調味料の草分け的存在であるグルタミン酸ナトリウムが、日本人研究者の池田菊苗博士によってコンブのうま味成分として発見されてからちょうど100年が経ちます。今日、うま味は“umami”という語で世界的に認知されるようになっています)。

ですから、現代の便利な食生活の中で私たちが置かれている状況は「味覚の退化」ではなく「調味料慣れ」とでも言えば良いものでしょう。

ある一定濃度以上に濃い味を「うまい」と感じる、そういう「慣れ」ができてきたということです。

ですから、感受性の豊かな本来の味覚を取り戻そうとすれば、それはちょっとした意識の働きかけによって可能になるはずです。

「味覚と進化」については、ちょっと驚くべき話があります。

魚類に始まって私たち人類に至る脊椎動物において味覚を感じる細胞(味覚レセプター)は共通だということが知られているのです。

つまり、魚もヒトも美味しいと感じるもの、まずいと感じるものには共通性があるということです。











脊椎動物の進化の両端に位置する魚とヒトで共通していることについては、その間に存在する全ての哺乳類はもちろんのこと両生類、爬虫類、鳥類にも共通しているということになります。

人間が美味しいと思うものが他の動物にも好まれ、逆に人間が嫌いな味は他の動物も避けたいと感じるということ、この事実は脊椎動物生存の原理が究極的には食べ物を嗜好することと忌避することの二者択一に依存していることを示しています。

つまり食べ物の好き嫌いに関する歴史は人間が昨日今日問題にし始めたことなどではなく、途方もなく古い時代(ざっと4億年以上前)に出来上がった生物の生存を賭けた仕組みだったということです。

もっとも、魚のように水中に棲んでいるものの味覚は陸上生物の嗅覚にも似て、食物を口に含む前の段階で水に漂う分子をキャッチするようにできています。

つまり味覚は必ずしも口の中でのみ感じられるものではないということです。

さらに驚くべきことに、ヒトの場合であっても、舌のみならず食道とか胃の細胞にも味覚のレセプターは存在するらしく、私たちは無意識のうちにお腹の中でも「美味しいか美味しくないか」を峻別しているのかも知れません。

味覚という感覚の奥深さを改めて感じさせられる事実だと思います。

次回の更新は10/7(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/09/22 (6:04 pm)
ジャーナリストの立花隆さんが以前、膀胱がんで手術のため入院された時の様子を手記に書いておられました。

その中で印象的だったことは、「とにかく塩分がほとんどない食事のつらさ」についてのくだりです。

膀胱は循環器の一部ですので、消化管の手術とは違って食事は比較的自由なのではないかと思っていましたが、実際にはさにあらずで、血圧に対する影響を考慮してのことでしょうか、特に塩分はかなり徹底的にカットされるということです。

塩気が欲しくて欲しくてどうしようもない状態というのは身体がナトリウムイオンなどを必要としていることのシグナルですので、これに逆らうのは実際には不合理なことです。

しかし、手術という特殊な状態にあっては、塩分よりもまず優先せざるを得ないことが別にあるわけで、そのためには本能的な欲求も一時はやむなく退けなければならなかったのでしょう。

立花さんの経験した病院食では、パック納豆に混ぜる小さな袋入りの出汁(だし)がほとんど唯一の塩分で、残る一滴も無駄にはすまいと、おかゆの中に出汁の残りを入れようと、その袋をお箸でしごきながら最後の最後まで出し尽くしたということです。

こういう凄まじい状況を聞かされると、常々無意識にしょうゆやソースなどを使い放題に使っている私たちの境遇が改めてありがたいものだと感じられます。

考えてみれば、街の飲食店で提供される食事は、とにかくぱっと口に入った瞬間に「美味しい!」と感じさせられるかどうかが勝負となります。

つまり、分かり易い味付けがメインになってくるわけですが、そのためには食べる人の健康に良いかどうかということを第一義におくことが難しくなります。

お寿司のような一見淡白なものであっても、あとで非常にのどが渇くことはよく経験します。

例えば、お寿司で言えば、鮨めしやトータルに使うしょうゆなどに含まれる塩分が、かなりの量になるからだろうと思われます。











砂糖や食塩のほか、化学調味料も相当な分量になるはずです。

かといって、私はそういった食品添加物が「健康に良くないので使うことに反対」だとは思っていません。

基本的に食品添加物は国家によって相当な量を食べても安全であることが十分丁寧に保証されているのです。

要は使いようで、使う必要のないものまで使うことはないということです。

しかし、実際には外食が続いたりすればその量は必要量を簡単に超えてしまうことになります。

以前、お寿司をお土産として持参し、友人の新居の引越しの手伝いに行ったことがあります。

お寿司屋さんで握ってもらったその折り詰めには、あいにくしょうゆが入っていませんでした。

友人宅はまだ荷物も十分開梱されておらず、調味料も何も使えませんでした。

その頃はコンビニも近くにない時代でした。

そこで仕方なくそのまましょうゆなしで、食べるほかありませんでした。

立花さんではありませんが、ほんの少しのしょうゆがずいぶん恋しく思われたものです。

ところが、少しずつよく噛んで食べていると(不思議に味が薄いと噛む回数が増えるようです)、案外それぞれのネタの味がよく分かり、これまで気づいていなかったお寿司本来の美味しさのようなものが感じられた気がしました。

これは発見でした。

食材にはそれ本来の「持ち味」がありますから、それを覆い隠すようにして使用される調味料はやはり程々が良いのでしょう。

そういえば、高級ビフテキなどはソースをかけないで食べたりしますね。

まあ、だからといって概して超薄味の病院食が味つけに無頓着で良いかどうかということとはまた別の話ですが、「実りの秋」には調味料を最小限に抑えたメニューというのをこしらえてみて、食材本来の味を感じる「味わう力」がどのくらいのものか、試してみるのも案外一興です。

調味料慣れした現代人はその点かなり退化してしまっているかもしれませんから・・・。

この場合、おそらく退化するのは舌(味覚のレセプター)ではなくて、味を「味」と感じる脳の方です。

次回の更新は9/30(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/09/16 (6:12 pm)
現在どこかの病院で入院している人がいるとします。

その人は医師の診察を受け、手術などの施療を受けます。

細菌などの感染を防いだり、傷の治りを早くするための医薬品などを処方され、そしてベッドで過ごしています。

一般に病気というものはそのようにして「病院で治してもらうものだ」という風に思われがちです。

手順としては確かにそうですが、ただ、弱ったり傷ついたりした身体は基本的に患者さん自身の治癒力によって良くなっていくものです。

身体のどこかに何らかの異常が発生すれば、それがどんなものであれ、身体自身は何とかしてその異常を正常に戻そうとします。

そのためにいつでも全方位的な作業を開始するようにできています。

入院中に経過を診察してもらったり、処置をしてもらったりする時間はそれほど長いものではありません。

大半の時間は患者さんが一人ベッドで横たわっていたり眠っていたりという状態で過ぎてゆきます。

その間、することもなく退屈になります。

しかし患者さんの身体そのものは退屈どころではなく、まさに24時間一瞬も休むことなしに治癒に向かって活動を続けているのです。














では、患者さんのその間断ない治癒活動の源泉になっているものは何でしょうか?それは、患者さんの食事にほかなりません。

もちろん普通にお箸やスプーンを使って口から食事を摂れない方もいますが、それでも何とかして様々な種類のチューブなど使いながら体内に必要な栄養素は送り込まれなければなりません。

眠ることも重要です。

睡眠中には特有のホルモンが分泌され体調が整えられたり、身体の活動が休止状態にある時にそれを「書き入れ時」として修復活動が行われたりしています。

これはさしずめドックに停泊している船のような感じです。

つまり、寝ている時も夜中でも、全身が忙しく働いているのです。

その働きを支えるものはエネルギー(脂肪や炭水化物)であり、身体を構成する材料となるもの(タンパク質やアミノ酸など)ですから、これらを絶やすことはできません。

一般に生命活動に必須でありながら自分の身体で作れない一群の成分はビタミンと呼ばれますが、これは前述の脂肪・炭水化物・たんぱく質(アミノ酸)などを摂取しても作れないという意味です。

入院状態にある場合は、ビタミン以前に必要最小限の栄養を摂ることがまず先に問題になります。

言ってみれば全ての食品がビタミンのようなものです。

こういうことは健康な状態で普通に食事のできる時にはほとんど意識されることもありません。

原則として入院している人は病院から提供される食事を食べることになります。

「身体の不具合を自分自身の身体の働きで修復するためのエネルギーや材料となるものを規則正しく供給すること」、これが食事の持つ最も重要な役割です。

と同時に普通の食事と同じ目的、つまり空腹を満たすことも、もちろん必要です。

こういうことは改めて考えてみれば当たり前のようなことに思われますが、病気は「医師や薬」が治すのではなく、患者さん本人の生命力によって治癒するという事実、そしてそれを基盤から支えるものが毎日の食事だということはもっと意識されても良いことだと思われます。

医師や薬が持つ使命は、個々の患者さんの置かれている身体状態を正しく見極めながら、患者さん本人が備えている治癒作用の妨げになるものを鎮めたり(解熱剤や抗生物質など)、一時的に麻痺させたり(例えば鎮痛剤や麻酔、睡眠薬など)しながら少しでもスムーズに治癒回復するための手助けをすることにほかなりません。

次回の更新は9/22(水)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/09/09 (6:11 pm)
入院の経験をお持ちの方はお分かりだと思いますが、一般的に病院、特に大病院の食事のイメージと言うのは「冷たい」「おいしくない」というものではないでしょうか。

大昔ならともかく、今は街にはおいしくて安い食べ物がいくらでも販売されていますから、病院の食事がおいしくないとすれば、それは調理の腕前に問題があるのではないかとか、配膳のシステムが不十分なのではないかとか、つい、いろいろ原因を想像してしまいます。

もちろん体調が良くないから入院しているわけで、食欲が減退しているという事実もあります。

ついこの前、名古屋で臨床栄養学会という集まりがあったのですが、そこで私は病院食のおかれている実態に関するシンポジウムに参加してきました。

病院の立場から、あるいは給食を受託している企業の立場からのプレゼンテーションを聞く機会がありました。

一言で言えば、病院食というのは大変だな、ということが改めて分かりました。

もちろん資金に糸目をつけなければどんなことも可能でしょうが、まず昨今の社会の高齢化に伴って日本の医療財政は既に破綻的状況に瀕しています。

それで先の小泉内閣の時に「医療改革」が行われたわけですが、結果的に医療側のコスト負担がきついものとなって、現場はさらに厳しいところに追いやられてしまいました。

これが根本的な事情のひとつです。

医療財政の国家的窮乏についてはよく報道もされていますので、一般の方々も概ねご存知かと思います。

次に、病院食そのものが持つ特別な性質があります。

これが実はあまり知られていないところで、私も先のシンポジウムで初めてその難しさの一端を理解したばかりです。

例えば、肝硬変を患っている高齢者の方が同時に糖尿病をもっており、これが原因となって腎不全を併発しているというようなことは珍しいことではありません。

こういう場合には動脈硬化も進みますから心筋梗塞の発作で倒れてしまい、そのときに大腿部を骨折してしまった、それで病院に担ぎ込まれてきた!というようなこともあり得ることです。

加えてこの人が卵や小麦にアレルギーをもっているかもしれません。

さてこのようなケースで入院となった場合、病院側は糖質、塩分を控えながら、卵以外のたんぱく源に限って流動食的な食事を用意しなくてはなりません。

しかも、入院当日から一度たりとも欠食させるというわけにはいかないのです。

また、入院中、毎日毎食同じメニューばかりということもできません。

もちろん管理栄養士さんの手によっていろんな療養食の献立案はそろっていることと思われますが、それにしても「この患者さんにはこの食材は使うべからず」といういわゆる「べからず」を間違えないように調理し、ミスなく遅滞なく3食配膳しなければならないのです。

そういう患者さんが200床とか300床のベッドに横たわっているとしたら、これは想像するだけでも大変なことです。

このような「べからず」を専門用語では「コメントつき献立」というそうです。

先の例ではコメントが5つも6つもくっつくことになります。

一方、通常健康に暮らしている多くの人々にとっては献立コメントはなし、あっても少数ということで、ほぼ毎日好きなものばかりを食べ続けています。

このギャップが入院という経験を期に目の前の現実として現われてきます。

これだけの困難な「条件付き食事」をタイムリーに提供するという仕事は大変なものですが、これを限られた医療費の一部で実現しながら「まずい」「冷たい」という批判に応えなければならない状況はいかにも厳しいものです。

次回もこの問題について考えてみたいと思います。










次回の更新は9/16(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/07/15 (5:59 pm)
高齢化社会の研究はますます必要になるに違いありませんし、政府の政策を支持したり批判したりすることも関心のありようとしては重要なことだと思います。

けれども、このような検証や検討は、経済的にも精神的にも苦しい立場に追い込まれていく高齢者の人々を救うことをミッションとしていながら、その施策の根底には結局「人の愛情」が必要であるというようなことには、あまり触れられておらず、そこに大きな空洞の存在を感じます。

別の見方をすれば、そのような「家族をはじめとした肉親の愛情」には期待できない、それが期待できるくらいであれば苦労はしない、というところから出発していると見るべきなのかもしれません。

この頃は息子が母親の介護を行う例が増えているのだそうです。

これを聞けば、そこはかとなくほのぼのとしていて良い感じがしてきますが、そのあとに「しかしその場合には虐待が伴う場合が多い」と続けば、今度は心穏やかではいられなくなってきます。

幼児虐待の方も容易ならざる問題ですが、一般的には自分の子供のおむつを替えることを苦痛だと感じる親は少ないでしょう。

赤ちゃんのおむつ交換だって、それ自体は別に楽しいことではありません。

それなのに、その作業を苦痛と思わないとすれば、それはそこに特別な愛情があるか、もしくは(ベビーシッターといった)職業的な「慣れ」があるかのいずれかということになります。

寝たきりの人に対する下の世話なども、これと基本的に同じことだと思われますが、それでも(世話をされる方の心情としても)赤ちゃんの場合に比べてより気の進まない作業ではあるでしょう。

従って、寝たきりの人を肉親が介護するということについては、赤ちゃんに対する「以上の」愛情が伴っていなければならないことになります。

ただ、赤ちゃんの世話と異なるところは、そこにもうひとつ「これまでの諸々に対する感謝」という情念が関わってくることだと思われます。










愛おしいという情と、今は床に臥しているその人への感謝の念、これらについての議論が行われることはあまりありません。

それはおそらく、類型化の不可能な個々別々の事情に依存するからでしょう。

つまりそれぞれの人の人生の真髄に入り込むことは第三者として限界があるということです。

従って情のレベルでは「最小公倍数」を示すこともできないし、政策に基づく社会システムが介入することも難しくなります。

「生み育ててくれた母親の介護に及んで虐待をもってするというのは何たることか?」と問うこともしないし「あなたは一体どんな息子の育て方をしたのか?」と床に臥す人を詰問することもできないわけです。

厳しいようですが、人生の終盤を迎えた時に、そういう殺伐だけが露出してしまうとすれば、それもその人の人生をとりまく積年の結果だということです。

この文脈で考えれば、一事が万事、現代の教育やいじめのなどの社会問題も最終的には世の中のあり方を問う一方で、個々人が「自分にまつわる自然な愛情のあり方」を若い頃から丁寧に考えることを抜きに解決はあり得ないように思われます。

次回の更新は7/22(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/07/08 (5:53 pm)
「長生きはできるに越したことはない」ということは、例えば20−30年前あたりまでは(絶対の真理とまでは行かずとも)かなり当然のことと信じられていたと思います。

もちろん今でも誰かが生死の淵をさまようような状態になれば、周囲も医療機関も何とか命を救おうとします。

大怪我をして倒れている人を見て、まさか「長生きしても幸せとは限らないんだからここで死んでしまうのも悪くないかもしれない」などと思う人はまずいません。

数年前に「長生きするリスク」という言葉を新聞か何かで目にした時、非常に妙な気がしました。

これは何とも逆説的な、向こう受けを狙った警句です。

その言葉が意味するところもよく分かりました。

よく分かるけれども分かってはいけないような気がしたわけです。

高齢も後期、超後期といったあたりになってくれば、現に身体のあちこちに不調が出てくるわけですし、病気ではなくとも筋肉や感覚器官、ホルモン分泌などのあらゆる器官に減弱現象が現われてくることはやむを得ません。

ついには一人で暮らすことが難しい状況になります。

一方、近隣の地域のつながりは薄まり、家族は孤立化に向かう、という現状の方向性も歴然としています。

おまけに経済的にも難しい状態に追い込まれてしまいます。

人間いつ死ぬかということが初めから確定していれば、どんな計画でも立てられますが、こればっかりはまず分かりません。

分からないから生きていられるのです。

このように考えると人生の終末期というのは、まるで霧に包まれた狭い飛行場にいつとも知れず着陸しなければならないような、かなりのスキルを要する難事業であるように思われてきます。

誰しも本能的に墜落は避けたいと願ってはいるのですが、そろそろ着陸かと覚悟を固めていたものの、乱気流の中を何年も飛び続けるしかなかったというような現状も多々あるでしょうし、飛んでいる本人の自覚がなくなってしまう場合だってあるでしょう。

また周囲が強引に「着陸」させることも許されません。

ただ社会的にそのような状況になっていく人口が今後増えていくことは確実ですので、前回書いた上野千鶴子先生のような研究が是非必要になってきます。












社会研究やそれの具体的活用手段である政治においては「一般化」ということが重要な要件になります。

つまり、できるだけ多くの人の役に立つような対策を打ち出せるように物事を整理していく必要があるわけです。

老いの問題でいえば、どういう世代のどういう性別の人がどの位のコミュニティ規模の中にどんな経済状態、どの程度の健康状態で過ごしているか、というようなことを類型化して行かなければなりません。

類型化によって、ああ自分はこのタイプだからこうすれば無事「着陸」できるなとか、自分の親はこのタイプだからこうしなければならないな、といったことにある程度の手が打てるようになります。

ただ、政治制度がそれを解決しようという提案をする場合、経済的制約によるか、類型化作業の限界によるかは別として、結局は何らかの「最小公倍数」的なケアを与え、受け取るということにならざるを得ません。

東京都の高齢化施設の例でいえば、賄いつきの個室面積が当初「ひとり八畳」だったのが、「六畳」となり、とうとう「四畳半」になってしまったということです。

裏にある事情を聴けば理解できるのかもしれませんが、直感的にはきついな、と思ってしまいます。

これはつまり「長生きできるに越したことはない」という絶対真理に疑問符が付くかもしれないぞということです。

もはや私たちはこの種の状況に「慣れ」を感じ始めている可能性もありますが、よくよく考えてみれば「長生きも考えものかも・・・」といった現代日本人の抱く不安は、人類が史上最も長い平和と繁栄の果てに初めて遭遇している感覚と言えるのかもしれません。

次回の更新は7/15(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2010/07/01 (6:04 pm)
物心つくまで私を育ててくれた曽祖母は明治19年生まれで、私が小学校6年生の時に老衰で亡くなりました。

享年84歳でした。

昭和44年(1969年)のことです。

当時のおよその平均寿命は男性69歳、女性74歳でしたから現在で言えば100歳近くまで生きたような感覚だったと思います。

因みに2009年の平均寿命は男性79歳、女性86歳ですから、昔と比べれば、男性の寿命もずいぶん延びたものです。

それに、あれほど長生きだと思っていた曽祖母も、今の水準で言えば特に長命の部類に入らないことに改めて驚きます。

ところで先般、東京大学社会学研究室の上野千鶴子先生のお話を伺う機会がありました。

先生はかねてから日本社会におけるジェンダー(社会的、文化的な性差)の問題に取り組んでこられましたが、昨今では「おひとりさまの老後」「男おひとりさま道」といった本を著され、老後の実態あるいは老後いかにあるべきかといったことについて説得力ある数多くの提言をされています。

そういうことを勉強してみると、私たちが直感的に感じていることが事実とは逆だったり、さして問題だと思っていなかったことが大問題だったり、あるいは自分とは関係がないと思っていたことが実は、もはやそこから逃れられない状況になっていると気付いたりと、そういうことの連続です。

ともかくこの超高齢化社会という課題はいつしか新たな社会問題として発生し、そして、今では、もはや全ての国民に大きく(「大なり小なり」ではなく!)関わっていることなんだと改めて認識しました。

私は、小学校3年生だった1966年のある朝に「敬老の日」という祝日が設けられたことを担任の先生から知らされたことをなぜかよく覚えています。

その背景には「長生きは、すればするほど良いことばかりである。

年老いた人を敬い、労わりましょう」というニュアンスが含まれているものと子供ながらに感じました。

そして我が家に帰れば元気で優しいおばあちゃんが居ましたから、そのことに少しの疑問も持ちませんでした。

その「疑問の余地のなさ」は、その後、現在に至るまで基本的に私の中に持ち続けられ、今日に至っています。

私がそういう感覚しか持ってこなかった理由の一つには、私の身の回りに重度の課題を抱えた高齢親族がいないということにもあると思われます。

人はやはりその立場になってみないと、本物の問題意識を持つことは難しいのかもしれないと思います。















上野先生による高齢化社会の実態のお話は、その膨大な研究の一部であるわけですが、伺った限りから印象深かったポイント、気付いた点などを以下に挙げてみます。

(1)現在65歳の人の有配偶率(結婚をしている相手がいる率)が最高に高い。つまり、かつては65歳を超えて夫婦ともに生きている人の率は少なかった。また現在は中年以下の離婚率、独身率が上がっている。いわば現在65歳の年代の人は、結婚が「一生もの」であった「最初で最後の世代」だということのようです。

(2)いわゆる「孤独死」が一番多いのは50代男性である。

(3)家族以外の人やシステムによる介護より、家族による介護が優れている、とは必ずしも単純に言えないこと。つまり「家族による介護」のパターンも実に様々であり、(言ってしまえば)「居ないほうがマシ」のような家族もかなり実在するという現実。

(4)「在宅ひとり死」と「孤独死」は違う。「孤独死」は存在を(生存中から)誰からも意識されない状況の中で迎える死で、死後、時間が経って発見されるようなケース。「在宅ひとり死」はそうではない。

(5)今後は「選択縁」が重要になる。「選択縁」とは人間関係に関する新しい概念。終末に際した人生の範囲に自分の状況を知る人が居り、死の瞬間を看取れないまでも何らかの対応をとってくれる人、そういう「縁ある人を選んで持つ」という意味。その「縁」が血縁(家族や親類縁者)や地縁(隣近所)である必要は必ずしもない。

こういったことはどれもはっと驚くような、それでいてなるほどと納得できるようなことばかりです。

次回もこの話題を続けたいと思います。

次回の更新は7/8(木)です。
カテゴリ : 高齢者・療養中の方 : 
2009/04/16 (11:59 am)
これまでL-カルニチンと高齢者について、しばしば考えたり書いたりする機会がありました。

その観点はおよそ2つに分けられます。

筋肉に含まれるL-カルニチンの量は、加齢に伴って減少してくることが知られています。

また、40歳以上では筋肉そのものの量が減ってきます。

L-カルニチンは体内では90数パーセント以上が筋肉に存在しますから、加齢とともに身体に保有する絶対量はかなり小さくなることになります。

これはおそらく、年齢を経るに従ってL-カルニチンを含む肉類の摂取量が減るという事情とも関連していると考えられます。

いずれにせよ、身体運動を支える筋肉が減少し、そこでエネルギーを生み出すL-カルニチンも減少するのですから、この老化現象を少しでも抑制することは高齢者の健康戦略の1つになると思われます。

一方、L-カルニチンは体内で一部アセチルL-カルニチンという物質に変化します。

このアセチルL-カルニチンは脳に作用して、ある種の記憶力を高めることが知られています。

主にこれら2つの意味合いから、高齢者の方には日々少しずつでも、L-カルニチンを摂取されることをお勧めしたい、というのが、この分野での私たちの考え方でした。



ところで、先日横浜市内の大きな病院を訪れる機会が何度かありました。

平日午前中の大病院の待合室の人口密度は想像以上のものでした。

受付の後で、血圧などを測定して、患者さんはかかりつけの科の窓口の前でひたすら待つことになります。

大きな待合室をざっと見渡したところ、高齢の方の圧倒的な数の多さが思っていた以上に目立ちました。

この印象の強烈さは、新聞などで高齢化社会云々といった情報に接し、頭で理解している(つもりの)状況とは全く比較にならない感じです。

私たちは専ら、抗加齢について考える場合、活性酸素をいかに上手く消去するかだとか、身体機能としての筋肉やエネルギー代謝、あるいは脳機能にプラスに作用する栄養成分は何かとか、運動はいかにあるべきか、といったことについて考えてきました。

しかし、実際の医療現場を見てみると、寝たきりの方、あるいは寝たきりではなくても車椅子に乗ったままの方は大変多いですし、広大な待合室で順番を待つ人々の様子には、概して「生気」といったものが乏しいように見受けました。

その光景から私は、老後においては「生気を維持する、取り戻す」ということが大きな課題ではないかと、今さらながら思いました。

こういうことはこの種の専門分野ではすでに当然のことと認識されているのかもしれませんが、いずれにせよ、一市民として現場を見る限り、その対策や実践がどこにあるのか、私にはよくわかりませんでした。

そして医薬品やサプリメントにそういう力があるのかどうか?その答えはNoだろうと思います。

つまり、いくら懸命に抗認知症薬を服用し、抗酸化サプリで活性酸素を消去し、L-カルニチンを送り込み、アセチルL-カルニチンで記憶を活性化しようとしても、それだけでは「生気を取り戻す」ことにはつながらない、それらの対策はせいぜい生理学的な基礎状況を支援する必要条件に過ぎないわけです。

では、そういうとき何が必要かといえばそれは単に気力というものでもなく、何らかのテーマ、生きていて楽しいと思うこと、趣味でも旅行でも、ボランティアでも、どんなことでもよいわけです。

「テーマがないという状況」そのものが問題ではないかと思います。

もとより、飲んだだけでテーマを与えられるクスリやサプリメントなどあるわけがありません。

サプリメントという言葉はもともとが「何かに付け加えるもの」という意味を持っていますが、その「何か」とは「運動とバランスのよい食事」などと考えられてきました。

一般的にはその認識でよいのでしょうが、いわゆる仕事や社会的責務を離れた状況にある高齢者の方になると、そこに「生きがい・テーマ」をもう1つ付け加える必要があるだろうということです。

老後の時間が人生の4分の1以上を占めるようになった昨今ですが、そこにテーマを持って生きる方法については、十分に研究されておらず、多くは単に個々人の都合に委ねられているように思われます。

いずれにせよ、実際に病院の待合室の様子を見たとき、すでに私たちの社会の中で、確たる対策のないままに始まってしまっている他人事ではない現実、そして何といってもその総量に圧倒されました。

誰もが小さくとも「テーマ」を持つこと、持たせてあげることに対する執着を抜きにして、この課題は国家経済的にも理念的にも解決されないだろうと思われます。

今後、さらに規模が大きくなる超高齢化社会に向けて、これは医療や栄養マネジメントと並行して考えなくてはならない大問題と言えるでしょう。

次回の更新は4/23(木)です。

(1) 2 »

毎週木曜日更新!健康に関するクイズ!
企業・研究者様向け“L-カルニチン”総合案内
本サイト運営企業。L-カルニチンの世界最大手メーカー
L-カルニチンサイト(英文)
id: 
pass:   
 
Copyright © 2005-2013 LONZA Japan.All Rights Reserved.