執筆者の紹介

王堂 哲
ロンザジャパン社勤務。

L-カルニチンに限らず、すぐれたサプリメントがきめ細かく研究され、正しく用いられながら日本人のQOL向上に役立つことをテーマとして活動している。


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カテゴリ : 疲労 : 
2012/05/10 (11:00 am)
大型連休はいかがお過ごしでしたでしょうか。とんでもない竜巻や雷雨もありましたが、その合間をぬって新緑の間を吹き抜ける風には最高級のすがすがしさを感じました。

休みに入る前に「休日中の休憩が必要では?」ということを考えていた関係上、それをさっそく実践してみることにしました。

この休みはいわゆる「生前整理」ではないですが、家の各所に長年吹き溜まった様々なものを徹底的に片づけるということをテーマにしました。

ところがいざはじめてみるとかなり大変で、どんな順序で何をどこに置こうか、これは処分しようか引き続き保管しておこうか等々全体的な構想イメージの中で次々に判断を下してゆかなければなりませんでした。

さほど大きな家でもないのに、片づけの対象となる物品の全体量は相当な分量に上りました。














単純に肉体労働としてみても物の上げ下ろし、階段の上り下りだけでトレーニングジムにずっといるような感じでもありました。

そこで例の休憩ですが、「疲れたなあと思う前」必ず1時間程度の作業でいったん手を止めて短時間でも休憩を取るようにし、食事もコンスタントを心がけ特に水分の補給は手まめに行いました。

これでけっこう早朝から夕刻まで連日の作業が意外なくらいはかどった、というのが今回の私の実感です。

普段使わない筋肉も使いますので、全身の筋肉のケアを兼ねてL−カルニチンを毎朝始動前に摂取することもしました。

ともかくもなんとか連休最終日に整理整頓の形がそこそこ整い、休日明けはけっこうすっきりした気分で仕事に向かうこともできました。

いつもであれば、ノッてきたな、と思ったら休憩を取る時間が惜しくなり、ついつい作業も夜中までやってしまったりしたものですが、今回は早朝から夕刻までと決めてやったのが結局よかったのではと思っています。

「手まめな休憩と食事」という方法はべつに大型連休に限ったことではなく、毎日の仕事の中でも簡単に行える疲労のマネジメントだろうと確信したところです。


次回の更新は5/17 (木)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2012/04/26 (11:00 am)
前回「羽目をはずす」と「羽をのばす」ということについて考えてみました。

そのあと偶然ある雑誌で漫画家の藤子不二雄さんが、昼間漫画を描いて夜から呑みに行き夜明けまで呑んでそのままゴルフに行くといったことが何日も連続したことがあった、というような凄まじい話を読みました。

この話は何年か前にもどこかで聞いたことがありましたが、ごく最近またその発言がありましたのでやっぱり本当なんだと改めてびっくりしました。

調べてみたら今から6年前の6月にこのブログで疲労のことを書いたことがありました。(このページの左側の欄で検索できますので「疲労」と打ち込んでのぞいてみていただければ幸いです)

その時には三島由紀夫、手塚治虫、モーツアルトといった天才の資質をもった人たちが文字通り疲れを知らずに仕事をし続けたことと彼らが早世したこととは無縁ではないのではないか、といったことを考えました。

藤子不二雄さんは今も元気にご活躍中ですので例外もあるのかもしれませんが、先般大阪市立大学の井上恭良先生がテレビで最近の疲労研究のことをお話になっておられるのを聞いて、やっぱり「疲れを知らない仕事ぶり」に潜む危険性を再認識しました。

「ああ、疲れた!」というセリフを最近あまり言っていない人は病的な疲労についてのリスクを持っている可能性がある、ということです。









「疲れた!」という感覚がなければ元気百倍でけっこうなことじゃないかと思われるかもしれませんが、身体が「疲れたから寝させてくれ!」と悲鳴を上げるしくみは実は生命を維持してゆく上においてはとても大切なものだということです。

その「悲鳴センサー」の調子が狂ってしまうと、結局精神的にも肉体的にももたなくなってしまいます。

早い話、覚醒剤の害悪の最たる一側面もそこにあります。

本来眠くなるべきときに目が爛々と輝いて1週間一睡もしないでも苦痛がない、こんな状態では身体は一発でマイってしまう、ということです。

むしろ、あきらかに疲れること気の進まないことをやっていて、「疲れがたまった・・・!」というときにはわかりやすいわけで、かえって問題は少ないのかもしれません。

自分の好きなことをやっているときが要注意ということになります。

例えばゲーム好きの子供などは数時間も続けてしまうことがあるようですが、これなどは危険なのでやはり休憩が必須になります。

と同様に、大人であっても仕事や作業の流れにまかせるのではなくて半分強制的に休憩をとるといった心がけが結局「丈夫で長持ち」、かえってトータルの効率もよいということになります。

もうすぐ大型連休が始まりますが、仕事をはなれて羽をのばされる方も羽目をはずされる方も「休日中の休憩」を上手におとりになり、溌溂とした「連休明け」を迎えられますように。

ではよい休日を!

追伸:次回はGW中一回スキップさせて頂き、5月10日にお目にかかりたいと思います。

次回の更新は5/10 (木)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2012/03/01 (11:30 am)
少し書き始めたものの、ミトコンドリアの話が止まらなくなりました。

このあたりで話題を変えたいと思います。

マッサージというものはかなり昔から行われていたはずですが、街角のあちこちにそういう店舗が見られるようになったのはせいぜいここ20年くらいのことではないかと思います。

私はタイのバンコックや中国、インド、フィリピンなど東洋の都市を訪れた時にはためしてみることにしています。

インドではプロレスラーのような大男の人が担当で、少しおそろしかったのですが、案外マイルドでした。

タイのものは聞きしに勝る激しいものでしたが、不思議にもみかえしのようなことにはなりませんでした。












対照的だったのがフィリピンの空港での体験で、これは搭乗を待つ間に籐椅子に腰かけてやってもらう簡易なものだったのですがなぜかそのあと数時間ほどしてしだいに身体がだるくなり、成田空港に帰り着いたときには疲労困憊状態に陥りました。(ついでながら、フィリピンのマッサージが全般的に疲労を呼ぶということではないと思いますので、念のためお断りしておきます。あくまでも私自身の体調と担当してくれた人(わりと力の強いおじいさんでした)の相性に問題があったのでしょう。いかにも「熟練のワザ」がありそうな人ではあったのですが!)

この時はおそらくマッサージの物理的な刺激によって筋肉などの細胞の一部が破裂し、そこが炎症反応を起こしたのだと思われます。

炎症が起これば発痛物質や疲労原因物質が放出され、血流にのって全身を巡るので身体全体がけだるいような状態になったに違いありません。

楽になりたいためのマッサージもこうなっては意味がないなあと嘆かわしく思ったものでした。

若いころにはたまにちょっと激しい目の運動をすると翌日起き抜けに太ももなどに「身が入った」状態になりましたが、年を経てからはそういう感じの痛みに襲われることはなくなりました。

そのかわり、数日遅れで「全身的なだるさ」に見舞われます。

この場合にも筋肉組織が一部破断することでフィリピンで経験したマッサージと似たような現象が起きているのだと考えられます。

つまり齢を重ねてきたときの筋肉痛は「全身の疲労感」として自覚されるということのようです。

次回の更新は3/8 (木)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2010/06/17 (5:56 pm)
疲労とは何ぞや?と問われて、スパッと科学的・学問的に答えられる人は専門家の中にもさほど多くはありません。

一方、専門知識などなくても、経験上、「こういうことだろう」とある程度のことは言えそうです。

例えば、運動をした時、残業が続いた時、徹夜明けの翌日、おなかがすいて動けない時、仕事がうまく行かない時、病気の時などなど。

どれもこれも「しんどい」ことは大なり小なり誰にも経験のあるところに違いありません。

一方、ずっと以前にこのブログに書いたことがあるのですが、「実は疲れているのに、頭が冴えきって眠くない状態」というものも広い意味で疲労のひとつの形と考えられます。

本当に疲れたら「疲れた」というシグナルが脳から発せられて、それが肉体を打ち負かして睡眠に持ち込むというのが健全な身体の安全装置というものです。

天才に短命な人が多いのは、この「眠るのも惜しいほどの創造性の湧きあがり」が疲労の中枢を麻痺させるからかもしれません。

まさに寝食を忘れた没頭ということですね。

ちなみに、覚醒剤を服用すれば眠気は全く起こらず、さらに多幸感が出てきたりもします。

それが嵩じれば最終的にはそこから離れられなくなりますが、挙句の果てには「眠らない脳」が幻覚を呼び起こしたり、身体全体が不断の稼動を強いられることによって、臓器が決定的に破綻してしまいます。

これは本当に恐ろしいことです。

ところで、凡人の私は先に書いたような運動、残業続き、徹夜明け、空腹、仕事の行き詰まり、病気などによる疲れはすべて経験したことがあります。

しかし、最終的には何とかそういう疲れた状況から毎回抜け出し、元の状態に復帰してきました。

もちろんこれは何ら特別なことではありません。

ただ、ここで言う「特別でない」とはどういう意味でしょうか。

それはおそらく、ヒトが進化の過程で身に付けてきた回復方法で解決できる種類の、いわば「想定の範囲内の疲労」だということだと思います。

いわば、これらはすべて「人類にはありふれた疲労」なのであって、似たようなことは恐らく縄文時代の人たちの生活にも見られたでしょう。

ですから、栄養の補給や十分な睡眠によって必ず復帰できると楽観していて良いはずのものです。

先週、時差マイナス7時間のところに3泊のスピード旅行をしてきました。

そこへ行くといつも現地時間の朝4時か5時には目覚めますので、まず寝過ごす心配はありません。

これはちょうど日本にいて夕刻から眠り始め、ぐっすり睡眠をとってから午前0時あたりに眼を覚ましたのと似た状態です。

この時間帯から午前中、お昼くらいまでは調子が良いのですが、夕食時になるとだんだん辛くなり、そのうち意識が朦朧として居眠りを始めてしまいます(徹夜明けにビールを飲んでパスタを食べたりしているのと同じですから!)。

3泊くらいでまた日本に戻ってくると状態はいよいよ怪しくなり、変な時間に目が冴えたり、起床時間に身体が鉛のように重かったりということを体験します。

今回もそうなりました(まだ今日も引きずっています)。

もちろんこれは典型的な時差ぼけの症状です。

世の中には時差に非常に強いと自負する人がいます。

しかし、私はこればかりは絶対に「無理は禁物」だと考えています。

なぜなら、これはヒトがかつて進化の途上で経験したことのない「想定外の疲労」に相違ないからです。

人類がこの世に生まれてこのかた、短時間に時差の壁を越えるというようなことが一般的になったのはようやくここ数十年のことです。

数百万年におよぶ人類史からみれば、こんな短い間に時差に対する適応力を備えることは到底不可能なこと。

ですから、そういうヒトに対処できるはずのない疲労については無理に克服しようとしないで、ゆっくり元に戻していくしかないのだと思います。










次回の更新は6/24(木)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2006/06/06 (6:47 pm)
「過労死」というと、サラリーマンが仕事に忙殺されて休みもとれず、蓄積するプレッシャーに押しつぶされて自殺してしまう、あるいは何かの病気になってしまう、そのような原因が思い浮かびますが、本当にそうなのでしょうか。

私は、専門家ではないので、詳しいことは知りませんが、違う側面から過労死というものを定義すると、「強烈なモチベーション(動機付け)にとり憑かれた結果、休息を返上し続けることによって、肉体が疲弊すること」でもあるという話を聞いたことがあります。

前回のブログで触れた、モーツアルトや手塚治虫さんといった方々は、その典型例ではないかと私は思います。



だとすれば、もっと起きていたいのに眠ってしまった、あるいは、これ以上残業すると明日にさしつかえるから、もう帰ろう、と「思い実行できる私たち」は、まだ救いのある存在かもしれません。

過労死については、疲労科学という学問分野で認定基準をはじめとして、専門的な研究がいろいろなされているそうです。

ただ、疲労科学という学問分野そのものが、大変新しいものですからまだまだ一般の私たちには馴染みのない考え方です。
「疲労感は、休息を取りストレスを発散すれば解消できる」、と単純にとらえられているとしても、無理からぬことかもしれません。

次回の更新は6/9(金)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2006/06/02 (10:50 am)
もう一つ、私が覚えている例を挙げてみたいと思います。

1970年11月25日の三島由紀夫の自決に対して、思想家の吉本隆明さんは、「暫定的メモ」と題する秀逸な評論を残しています。その中で、私の印象に強く残っている一節は、つぎのようなものです。

「すぐれた文学者には、すぐれた文学者にしかわからない、心の空洞のようなものがあるのかも知れぬ。私にはそれがわからぬ。」

このことは、前述の手塚治虫さんについて私が感ずるところと、非常に似たものを連想します。



三島さんが、「過労の末に亡くなった」などというと、独断に過ぎるのでしょうが、要するにモーツアルトにせよ手塚治虫、三島由紀夫にせよ、「創造のイマジネーションは倦むことなく湧き続け、その情念を抑制することすら難しかった」という点で、共通しているといえるのではないでしょうか。この「抑制し難い情念が、いわゆる過労死なるものへと導いた」のではないかというのが、今回、私が言いたいことです。

「湧き出る活力を上手に制御できるかどうか」−このような観点も疲労という現象を考える際に、非常に重要なヒントになるように思います。

(つづく)次回の更新は6/6(火)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2006/05/30 (1:50 pm)
漫画家の手塚治虫さんは、アトリエの中やとなりの部屋に出版社の人に列で並んでもらい、連載の原稿を次々と描きあげては渡していったのだそうです。

アンプルの眠気覚ましを飲んだり、机に突っ伏してしばしの仮眠に入ったり、といった様子は、テレビのドキュメンタリーで私も見たことがあります。最終的には、肝臓を病まれて亡くなられましたが、手塚さんの場合は、いわゆる天才の過労死のようなものではないかという気がします。



なぜ、そんなにまで無理をしなければならないのか、少しくらい休めばいいじゃないか、などと思うのは、恐らく凡人の思うところで、私の推測では、手塚さんはべつに、出版社との約束を果たすことを第一の動機として、無理を重ねておられたのではないように思います。

恐らくは、沸々と湧いてくる漫画やアニメのアイデア、美しい画像を紙の上で表現せずにはいられないような衝動が、手塚さんの精神や肉体を突き動かしていたのではないでしょうか。

書いた作品のことごとくが傑作になる、そのような経験をしたことのない凡人には、手塚さんの心境がわからないのだろう、そうとでも考えて納得しようと思ってしまいます。

(つづく)次回の更新は6/2(金)です。
カテゴリ : 疲労 : 
2006/05/26 (4:20 pm)
誰にでも経験があることでしょうが、私も子供のころに、「何かの天才になりたい!」と考えたことがありました。音楽の天才、絵画の天才、スポーツの天才などなど、何でもいいので。

今もって、年甲斐もなく、そんな妄想を抱かないわけではありませんが、それは、「天才=幸福な人」という単純な発想を、どこかで信じているからだと思います。しかし、天才本人は、「天才であることが、必ずしも幸せにつながるわけではない」というでしょう。

もちろん社会的名声を得、経済的にも恵まれて、一生を終えた幸福な天才も少なくないのでしょうが、一方では、天才といわれた多くの人が、湧き出ずる情念を抑えきれず、社会との軋轢に悩んだり、創造の才に振り回されて、不幸のうちに、生涯を閉じた人々も多かったことも知られています。



かなりむかしのことになりますが、宮城音弥先生の書かれた、「天才」(岩波新書刊)という本を読んで、一口に天才といっても、本当にいろいろなパターンがあるのだなあ、と驚いたことを覚えています。

現在では、脳科学の研究の進展により、それら天賦の才がある人の脳内では、ドーパミンという神経伝達物質が、非常に大量に分泌されていた、前頭葉の機能が亢進していた、逆に抑えられていた、などということが類推されるようになってきています。

しかし、それら多くの、天才と呼ばれる人に共通する大きな特徴は、「創造的活動において疲れを知らないこと」ではないかと思います。たとえばエジソンは、1日18時間発明をしていたといわれていますし、名画「アマデウス」に登場するモーツアルトは、アルコールを呑み、ビリヤードをしているあいだにも、五線譜にメロディーを書き入れていました。

(つづく)次回の更新は5/30(火)です。

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