知識を知恵にしてゆくには・・・?
ソクラテスは「無知の知」ということを言いました。
自分には知識がないんだ、ということに気付くということです。
これはどんなことをやっていてもつきまとうことで、またいくらやっても知識の上にはさらに知識があることがわかる人にはわかります。
オレはこのことにとっても詳しいぞ、というつもりで人に話していたことが実はまったく初歩的なことに過ぎなかったり、まちがっていたりしたことを後で悟ってとても恥ずかしい思いがすることになります。
この恥ずかしさというのは他人に対するものではなくて自分に対するものである場合、特につらいものです。
健康に関する知識の多くもそうで、ある成分やある仕組みについて研究したり詳しくなったりするとすべてそれで説明できると思い込みがちなのです。
たとえばあるコラーゲンを食べることで膝痛が抑えられる、という現象があります。
このとき「勉強してちょっと知識のある人」はこう言います。
「(知らないあなたに教えてあげるが)コラーゲンはアミノ酸が決まった配列でつながったものなので、これは消化液でばらばらに分解されてから吸収される。いったんばらばらになった配列がもとのコラーゲンの配列に組み直されること等あり得ないのだよ」と。
こういうことをいう「専門家」は、アミノ酸が決まった配列に組み上げられるしくみは遺伝子の配列によって決められている、という教科書的なことをなまじ知っているために、それで説明できないことはすべて誤りである、と考えるのだと思います。
そういう中である種のコラーゲンを食べることで膝痛がよくなったということがさまざまな実験で示された場合、一部の専門家は「ありえない」ではなく、「なぜだろう。本当にそうか?」と積極的な疑問や興味を持つようになり、ついにはそこに経口免疫寛容という別の仕組みがあることをつきとめることになります。
このようなメカニズムはタンパク質を食べたら消化液でバラバラのアミノ酸になるという「ちょっとした専門知識」とはまったく別の、そして一段レベルの高い知識なのですが「無知の知のない人」は相変わらずそんなサプリメントはナンセンスだという先入観から離れられません。
先入観ほどやっかいなものありませんが、一方で私たちはあらゆる物事にたいして何らかの先入観をもって評価することは避けられません。
ではどうすればよいのか?
「もしかしたらそういうことがあるのかもしれない」という気持ちを頭の片隅に置いておく気持ちの余裕が必要だと思います。
それから「こっちの方が正しいかも知れない」と考える根拠に出会った場合にはそれまでの自説を保留にしたり撤回したりする気持ちが持てるかどうかでしょう。
そしてもっと新しいことを日々に勉強したり研究したりしてもう一段上の知識レベルに登ってゆくこと。専門家なら特にこの努力が必須です。
現在まだ不安定な状況にある新型コロナの問題にしても今のところ非常に多くの先入観が混在する状態になっていて、これに白黒をつけようという場合には声の大きい人の論が通ってしまいます。
自説に対して慎重であったり謙虚であったりする人は、より単純で「声の大きな人」に論破されてしまうのが通例です。
他方専門家ではない人がかえって科学的な本質をとらえているというようなこともよくあります。
たとえば江戸時代に養生訓を著した貝原益軒は生理解剖学も生化学も分子生物学も全く知らなかったはずですから、今でいえば決して専門家ではありません。
それでいて今でも通用するような知恵にまで高めることに高度なレベルで成功しています。
彼ならコロナの時にはどうせよ、と言うだろう、そんなことを想像することはなかなか興味のあることです。
政治家は専門家ではありませんから有識者の意見を聞いて判断する、これはよいのですがぜひ貝原益軒のようなセンスを鍛えて欲しいものだと思います。次回の更新は11/17(木)です。
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